ノワくんがいない日

「…………」

机に向かい続けて、もう何分経っただろう。いや、もしかすると何時間、もしくは何日、という問いの方が適しているかもしれない。だが、そのような思考にふらついている時点で、集中力を欠いているのは明らかだった。

「……っげほ、……」

深く吸い込まれるはずだった空気は喉の痛みによってすぐに吐き出された。スコーンをたらふく食べた後のような…………ああ、水分を欲しているのだろう。机に置いたままのコップを手に取りキッチンへ向かう。コップの中で躍る粒は、相方が初めて臨んだシュクレクーレを思い出させる。

「……薔薇…………キャラメルいや、パープル……」

右手が冷たい。ふと我に返ると、溢れた水が床へ水溜まりを作っていた。重たくなった靴下を脱ぎ、ぺたぺたと透明な足跡を残しながら脱衣所へ向かう。山の頂上にずっしりと重たい布を乗せると、それだけで雪崩が起きそうな程傾いた。帰ってきて早々彼の仕事を増やす訳にはいかない。たしかカーテンの隙間から日が差していたはずだし、外に干せるだろう。カゴを逆さにすると入り切らなかったタオルが床に落ちた。少し浮いた蓋を押さえながらスイッチを入れてからキッチンに戻ると、水浸しの床が目に入り情けなくも一時思考が停止した。

 

先程空にしたカゴに早くも中身を与えてしまった。水を拭くだけなら汚れないだろうと踏んでいたが、どうやら埃が溜まっていたらしい。

「ここまで不衛生を看過するなど……」

黒ずんだタオルを傍目に眉を顰めるが、すぐに冷静さを取り戻し思案する。ぼくの衛生観念が正常を保ち続けているとするならば、ひょっとすると外では相当な時間が経っているのかもしれない。

「ともすれば」

両の手のひらを広げ観察を始める。右手には不気味な血色の良さが纏わり付き、反対の手には、痣のような紫が広がっていた。それは指先で摘む程の大きさになった色鉛筆の赤と、先月買った1ダースの――最後の一本であるにもかかわらず、早々に線が霞み始めぼくを非常に苛立たせた――ボールペンのインクを想起させた。キャンバスと成り果てた皮膚はかさついており、入浴を怠っていたことは明らかだった。

「せめて石鹸が残っている事を祈るとしよう」

タンスから着替えとタオルを拾い上げると、久しく目にしていなかったが顔を出した。これは洗濯機の蓋が見たことない程に撓む訳だと合点がいった。――ふむ、矢張りこのタンスの木目は美しい。

 

先程はタンスに気を取られたが、ぼくが手にした服は碌な物では無かった。五分丈のトップスというのは流石に季節外れが過ぎるというものでは無いだろうか。先日霜が降りた公園の草木を愛でる彼を思い出しながら独り言ちる。一寸先の未来に思わず身震いしながらも何も着ない訳にもいかず、薄い布を握り来た道を戻っていく。脱水を始めた洗濯機に張り付いているタイマーのスイッチを入れ、乾いた浴室に足を踏み入れる。シャワーノズルから冷たい雨を降らせ、温度が上がる前に洗浄料の残りを確認する。ボディソープ、シャンプー、トリートメント、いずれもぼくが使う分には事足りそうだ。彼が戻ったら買いに行かなければ。そういえば、この前のコマーシャルで宣伝していた香り付きの期間限定品に興味を示していたはず。パッケージもカワイイなァ――とテレビに釘付けだったのが記憶に新しい。いや、彼が出かけたのはちょうど一週間前のはずだから、恐らくあの記憶の時期は……と辿っている間に湯気が室内に充満する。限定のシャンプーがまだ売っているかどうかは、彼と一緒に調べるとしよう。一先ず、ぼくの 体内時計 タイマー が狂っていないか検証を行わなくては。

 

25分21秒――だいぶ感覚が鈍っているようだ。睡眠不足、栄養欠乏、色々と可能性は考えられた。だが……

「…………ノワくん」

自分の喉から出たとは到底信じられない程弱々しい声音にはっとして顔を上げる。曇りガラスの向こう側には行き場を失った迷い子のような、酷く自分によく似た顔が――すぐに驚いた様相に変わる。

「…………自分の顔など、そんなもの、面白みの欠片も……」

言うやいなやすぐに目を逸らす。いつかの事件を思い出させるような――五感を覆い尽くすような泥を取り払うように洗濯機の蓋を開けると、予想していた香りとは異なるものが鼻腔をくすぐる。……そういえば、洗濯には洗濯用洗剤と柔軟剤が必要だ。ぼくには先刻これらを投入した記憶が無い。眉間の皺を濃くしたまま、洗剤と柔軟剤をきっちりと計り、濡れたタオルも追加で放り込みリテイクを命じる。全くこんな些事に時間を割いている暇は無いというのにぼくは何時になれば飴細工を作り始められるのだろうね。

 

埃が溜まっている床を拭こうと思った。あらゆる板という板に頭をぶつけ、計測は行っていないが頭部を描く曲線が幾らか歪んだ様な気がしてならない。

次に、今度こそ洗浄工程を経た衣類を干そうとした。ぱちん、ぱさり、ぱちん、……ぱさり、と一つ前に干した洗濯物が次々に落下していく様子に首を傾げ、全て干し終えた頃には6と7の間にあった短針が何故か8を真っ直ぐに指し示していた。

そして部屋を移動して初めて気がついたが、床だけでなく本棚や机、終いにはベッドにも放置の跡が見られた。この有様は流石に彼に見せられない、と発掘したはたきをふるい始める。人間と違い、無機物というのは体幹というものが存在していない。つまり、均等に並べられたは直ぐにバランスを崩し、在った場所に戻ることなく地を転がるのだった。

「全く……」

腰を屈め、拾い上げながら続けようとした言葉が、耳に届かない。何を言おうとしたのだったか、輪郭を見せたかと思えば直ぐに思考に紛れてしまう。声帯は溶けて首筋に張り付いてしまったかのようだ。足掻く程に深く沈んでいくような、或いは底の見えない闇の中に落下していくような感覚だ。きみがいないのでは、

「ぼくは――」

 

あれから時間は経っただろうか。ふと気づくと足元には先程よりも多くの掃除の残骸が散らばっていた。数を見るに恐らく体感よりも時間が経過しているのだろう。ぼくがそこまで掃除に夢中になるとは思いもしなかったが。埃と共にはたき落されていた小物を全て拾い上げ振り返ると、まばらに床に散らばっていた洗濯物に手を伸ばす。

「…………花弁の応用で……サテンの質感を……この皺は…………」

スマートフォンは何処だ。紙でもいい。兎に角、一刻も早く記録して此処に留めておかなければ。忌々しくも集中力を使い切ったぼくの脳は、凡夫の如く目の前の情報に惑わされる。先程まで目の前に実体を持っていた筈の完成品は、視界にチラつく 風景 ノイズ に掻き消され、輪郭を失い、感触が損なわれていく。いくな、消えるな、ぼくから離れないで。こんなにも焦がれているのに、何故ぼくの元から去っていくの。

遠い。遠い。遠い。

ぼくの、ぼく達の場所が、歪んで……あ、そういえば、水分は取ったけど食事……――――

 

……

 

「――ろ、まほろォ……、――――……」

音、いや声が、聞こえる。半身が、呼んでいる。身体の座標がぶれる感覚、揺さぶられているのか。喉の奥が小さく振動するのみで、きみの名前が紡げない。瞼がとても重くて、きみの顔が映せない。

ふと、右手に柔らかい感触が現れた。温もりに包み込まれ、そこから全身がゆっくりと解凍されていくようだった。……眩しさを感じるも、不思議と瞳に異物感はない。金色の飴玉が――彼の瞳が此方を不安げに見つめていた。

「…………ノワくん、分かったよ。布の質感の再現にはオパリーヌが使える。ただサテン生地のように見せるにはシュクルティレの様なツヤを出す技法が必要だ。だが表面積の大きいシュクルティレは成形が困難だからね。成功すればきっと美しいシュクルダールになるよ……」

彼の顔を見て、頭の中が更にクリアになっていくのを感じる。心地好い感覚に頬が緩み、はたと気付く。ココで、きみの帰る場所で在り続けたいから。

「ああ、そうだった。――おかえり、ノワくん」

みるみる綻ぶ顔に、体の中身を擽られた気がして、誤魔化すようにキッチンへと手を引く。素晴らしいものを、きみと生み出せる予感で胸が弾んだ。