「幸せになってくれ」

 その呟きが彼女――彼に、届いたのかは分からない。苦しげに呼吸を乱す彼を半ば強引に海へと押しやり、沈んでいく彼を見送った。濡れた頬に反射する光が眩しくて、でも瞬きの間に彼女の姿が跡形もなく消えてしまうのではないかと、不安が掻き立てられた。そうしたら、思い出の中で彼を懐古することさえ許されなくなってしまう気がして、厭に恐ろしかった。そんな恐れからか、執着からか、俺は彼女の姿を焼き付けるように目を開いていた。カラカラの瞳は溢れる液体が潤してくれたが、大事なものが枯れ落ちたような心は、幾ら彼の姿を焼き付けても乾いたままだった。消えてからも、静かに凪いでいる水面を暫くの間呆然と眺めていた。

 あの島も海も、今となってはよく思い出せない。でも彼の――彼女の事は、鮮明に思い出せる。それは君が会いに来てくれたから、思い出させてくれたから。

「まーくん」

 懐っこく自分を呼ぶ声に顔を上げる。可愛らしい恋人がお呼びとあれば、いつまでも追憶に浸っているわけにもいかない。俺は立ち上がって彼――彼女の隣に歩み寄る。

 五年前、そんな別離があった。もう随分昔の話だ。

 

まひ古賀のお話は「幸せになってください」という台詞で始まり「もう随分昔の話だ」で終わります。

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